秋葉原の事件と四川の大地震
安全なところから、知ったようなことを書くのは、はばかられる。でも何か言わずにはいられない。
四川大地震については、日本も地震国。子供の学校の耐震工事について確認し、家庭内の備蓄品についてもあわてて確認し、ライブドアの株の戻し金(?)に寸志を加えて募金をし、親を失った子供と、子供を失った親のマッチングに、中国政府も心を砕いているというニュースに、双方のこれからの幸せを祈る。
そして、秋葉原の事件。本当に怒りを覚える。覚えるんだけど、容疑者のくぐもった感情に、同情をしてはならないと、そういう甘ったるい感情をもつことは悪いことだとわかってはいても、彼の携帯掲示板への切々とした吐露には、どきっとする。私も20代にまったく同様の気持ちを抱いていたから。
秋葉原を舞台にして電車男とされる男性が書き込みをはじめたのは2004年3月。彼は実在かどうかを詮索されてはいるが、ヒーローになった。伝説になった。
あれから4年。孤独の巣窟は2ちゃんねるのようなPCをメインの書き込みツールとしての中央集権から、すでに携帯をツールにしての分散状態。巣窟という言葉さえもすでにユートピアとなってしまった。秋葉原と、寂しい男と、ネットの掲示板。要素は共通しているのに、結果のあまりの違いに愕然とする。
さびしさをもてあます。それは、誰にもあること。男女を問わず。その表現として、7人もの命を奪うということが、やはり理解できない。理解できないからこそ、理解できる寂しさに、つい同情する瞬間があっても許されはしないか。あまりに途方もなく理解不能だからこそ、理解できる部分を探す。それは優しさではもちろんないことは十分承知してはいるが。
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